半田市ピアノ教室 講師紹介

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幼少の頃 

年中からヤマハ音楽教室に、楽しく通いました。

母がとても歌謡曲が好きで、いつも食事の支度をしながら歌っていました。(ちょっと音程は怪しい時もありました。)

又母のふるさとの長野県へたびたび遊びに行き、植物採集や昆虫(特にカブトムシとクワガタムシ))をして自然が大好きになり、今でも昆虫が好きです。

私は優しい母のお蔭で温和に育ち、とてもおしゃべり好きな子どもでしたが、ある日父におしゃべりを注意されて、ショックで無口になり泣かなくなりました。

ヤマハ音楽教室では、グループで始めに歌を歌ったり、音楽に合わせて踊ったり全員で曲を弾きました。

先生が明るく優しくて、みんなで一緒にする事が楽しかった事を覚えています。

 

小学生 

ヤマハ音楽教室である日、お友達が歩けなくなったと、話を聞いた翌日に、自分も足の関節が痛くなり、そのお友達と同じ関節リュウマチと診断され、風に当たってはいけないと長袖長ズボン生活始まりました。

しかも運動も制限されたのです。

長袖でしたので

夏は暑くて辛かったです。

毎年学級委員をしていたので、少し恥ずかしい思いをしました。

エレクトーンとの出会いは、年末の当時ユニーの店でエレクトーンのデモンストレーションの演奏を聴き、一瞬で好きになり、母に頼んで楽器を買ってもらい個人でエレクトーンを習いはじめました。

エレクトーンでは毎年地区大会、愛知県大会参加し、賞も頂きました。

エレクトーンは機種が変わると弾きにくいので、機種が変わるたびに母が内職をして、父に内緒で買ってくれました。

父が音楽嫌いの為、父の留守しか練習が出来ませんでしたし、新しいエレクトーンは、いつも毛布を被せて、父にはわからないようにしていました。

エレクトーンは友達と遊びたくなると、練習は後回しにしましたが、基本大好きでしたので、無理なく自分から練習してました。

弾けない箇所があると、そこが弾けるまで練習しました。

 

コンクールの前は、かなり練習してたと思います。

コンクールの三週間前に、突如曲の変更がある時もありましたが、なんとかやりきりました。

しかも曲の長さが10分近い曲でした。

先生は当時、エレクトーンの先生がなかなか見つけられずに、ピアノの先生にエレクトーンを習っていました。

 

 

 

 

 

中学生 

中部大会で努力賞。

参加者の境遇に格差を感じました。

曲もアレンジが洗練されていて素晴らしい演奏でした。

皆さん東京までレッスンに通い、エレクトーンの先生に習っていたそうで、やはりきちんとそれなりの投資が必要だと感じました。

 

 

葛藤・・・

当時出演者達はほぼ私立中学校からが多く、その時優秀賞を取ったのは金城中学校のお嬢様で、ファッションから何から何まで垢抜けていました。

憧れてしまうくらいに。音楽を存分に学べる環境にヤキモチをやいてしまったのです。

でもそんな素敵な方たちと一緒のステージに立てた事は、後からは自分の誇りとなりました。

中学校ではみんなが友達ってかんじで、男子とはふざけて走り回り、女子ともとても仲良しで毎日が充実していました。

中学1年の先生は、生徒をよーく観察してくれて、良いところは毎回全員の前で褒めてくれる先生でした。

受験の中学3年クラスは、暴れる君が沢山いて、教室のガラスがよく割れて、ろくに授業が出来ず、おまけに新米の男の先生で、女性っぽい先生で(M先生ごめんなさい!) あらーどうしましょう! っと校舎内を走り回っているし、残された生徒は、自習をして過ごした記憶があります。

反面教師じゃないですが、あまりに凄い状況でしたので、逆に受験のストレスを感じなかったように思います。

 

 

学生

半田高校には通っていましたが、勉強する意味がいまいちピンとこなくて、教科書も学校において、全く勉強せず、学校で教師達によく指名されていました。

ただ音楽は友達とヤマハ金山センターに通っていました。

指導者養成コースのコンパクト版の毎週コースで、ヤマハグレードの取得の内容で、楽典や演奏の指導を優しい先生に習えて、通うのが楽しみ、先生と会うのも楽しみでした。

何故この仕事を選んだかと言うと、自分は音楽がやはり一番好きで、子供達も大好きで、性格上自分にとって嫌いな事は出来ないので、何時間でも音楽と関われる仕事として選びました。

 

社会人 独身 

高校卒業後はヤマハの指導者養成コースにて指導法、演奏法を学び大変有意義な経験をさせて頂いた。

その後ヤマハ講師となり、1年目に週3日稼働で100人の生徒指導にあたりました。

お陰様で沢山の生徒様と出会えました。

その中で指導グレード4級、エレクトーン4級、ピアノ5級の資格取得しました。

 

私は、優しい先生でしたが、楽器店主催のコンクールやヤマハグレードの前のレッスンでは、ついつい身が入り叱ってしまう事もありました。

また毎年、子供達と合歓の里や、つま恋に楽器店から行くツアーがあり、毎年参加!

イベントには生徒さんが、よく参加して下さいました。

こんな事もありました。

お母さんからのクレームです。

レッスングループの中に、同じ名前のHちゃんがお二人みえました。

名前を呼ばれる回数が違うとの事。

それ以後は必ずメモして同じ回数名前を呼びました。

無事解決!しました。

けっこう人気があったのかもしれません。

 

結婚 

結婚後も仕事を続け徐々に、ピアノの生徒さんも増え、自宅で40人ほどを教え、同時に英語も教え始めました。

半田市科学館やエメラルドホールで、発表会実施しました。

 

英語をなぜ教え始めたかというと、

中学の時に他のクラスの先生に、お前は日本語より英語のほうが聞きやすいと言われたり、実際英語は好きで、英語でセリフを言うのも好きだったのです。

そんな事がきっかけで、英語も出来たらいいな!と思いスタートしました。

思ったら直ぐに始めてしまう性分です。

 

 

子育て  

2人の子供もピアノやバイオリンを習わせました。

自分がピアノを小さい頃からスタートしなかったので、子供には両方させました。

コンクール専門の先生に習えたので、技術面などの学びは多かったです。

ヤマハの世界では気づかない、繊細さを必要とすることを知りました。

自分も個人でピアノ専門学校に通い、自己研鑽し勉強しました。

バイオリンのスズキメソ-ドが、松本で世界大会を開催した時、世界中から指導者が集まり、日本の子供達も海外の先生に習えるので、海外の先生の全身で表現する指導に感激!

また自分が海外旅行が好きなので子供を連れて行きました。

その時、毎晩7時には下の子は寝ちゃいました。

海外に連れて行ったお蔭で、子供達は旅行先で皆が優しくしてくれるので、外国人が大好きになり、外国の人は優しいね!と小学生になっても子供達は言ってました。

 

 

まず家族で、下の子が2歳の時にヨーロッパ旅行10日間に行きました。

主人も会社を休むのに抵抗がありましたが、私のお願いで休みをとり

スイス、イタリア、フランス、イギリスに行きました。

その後ニュージーランド、オーストラリア、アメリカ、カナダ、モナコ、ハワイなど。

 

40代~

突然、小学4年の長男が海外留学したいと言い、中学まで待ってもらいアメリカへ渡米。

その後大学院までアメリカで過ごし、今ではニューヨークで税関係の仕事をしています。

長女も中学から高校までオーストラリアとカナダへ留学しました。

自分も中学の頃、凄く留学したかったので、全面的に応援しました。

何故我が子達は自分と同じように留学したいと思ったのか、最後は遺伝子かな?と思いました。

長男はアメリカでもピアノを学校で習い、また運がいいことに、ジュリアード音楽院に勤務していた先生にも習えて、現地のコンクールで毎回賞をもらい彼なりに自信をつけたようです。

又大学で、息子の部屋に窃盗が入りクレジットカード、お金、、パソコン、など取られ、本人もナイフを向けられて、精神的にまいった時、支えてくれたのはピアノでした。

 

 

息子は小学4年の時に、「僕は日本を守る為にミリタリースクールで学び、最後は日本の防衛大学に入りたい」と言いました。

歴史に疎い私は、彼ほどの危機迫る思いもなく、私もこの2年半でやっと彼の国を守りたい強い願いが、理解できました。

息子は歴史が大好きで、歴史本や雑誌をよく読んでいました。

渡米後は、7年間テキサスのミリタリースクールで、朝4時の起床ラッパで起きて、室内掃除してから、訓練を実際の軍人さんから受けました。

生徒の中には、カリキュラムが厳し過ぎて、車で逃げ出す事もあり、学校のあるオースティンからヒューストンまで先生方は追跡して生徒を連れ戻した話を聞きました。

凄い先生方のパワフルな対応に映画のワンシーンのようですね!

毎日訓練が終わり、シャワーを浴びて、今度は普通の授業をうけるのです。

ある時、イラク戦争でイラクに行った友達の死と向き合う事になり、目の前に起きたあまりのショックに、彼はその後戦争と関わらないビジネスコースに進路を変えてパデュー大学へ進学しました。

ミリタリーの高校の時に、ピアノでテキサスの州か市の音楽祭で賞をいただきました。

その賞状は、彼の毎年の心の支えになりました。

アメリカではピアノを弾けるというだけでも凄い事なのです。

パーティの際にも、とてももてはやされます。

また先生がジュリアードで教えていた方で、本も出版されている方でラッキーな出会いがありました。

その先生は今までに三回も雷の直撃を受けた先生で、かなりのおばあちゃんでした。

卒業式にお会いする事が出来ました。

 

窃盗事件の続きです。

実は、窃盗犯は息子の隣の部屋のアフロアメリカンの青年だったのです。

しかも息子はいつもその子に日本からお土産を買って渡していたのです。

それはそれはショックで、いくらお金目当てでも息子からすれば信じられない思いで、喪失感やショックで打ちのめされていました。

私も息子の状態が悪いから、日本に帰っておいで!と伝えても学校があるから帰れない。

その時息子から、ピアノを弾きたいからレンタルしたいと言う提案がありすぐにO Kを出しました。

ピアノのおかげで辛い時期を乗り越えることが出来ました。

人生でまさかの事件に巻き込まれた時に支えてくれたピアノ、ありがたい存在です。

息子が通っていたプライベートスクールは、石油会社のお子さんやボクシング選手のお子さん、ご両親が起業しているご家庭が多く、息子の友達のご両親も飛行機会社の訴訟案件で2億を手にした凄い弁護士のお母さんと電気会社を経営しているお父さんでした。

私が10日間滞在させて頂いた時、一緒に買い物に行きましたが、生活費が一桁違うので、服を買う時も、私に選んで下さいましたが、3着で40万でビックラたまげました。

お世話になっていたので、見栄張って買いました。

 

自慢の生徒

幼稚園からピアノを習いに来てくださったTさん、3年生からコンクールに挑戦して高校生になっても通ってくださいました。

受験も関係なくピアノが好きでたまらない生徒さんでした。

学業も素晴らしく旭ヶ丘高校で吹奏楽部に所属してコントラバスを頑張っていました。

彼女は科学者になりたかったので東大一筋でした。

一年目は東大は受からず名古屋大学入学して、その2年目に東大受験して見事に入学したのです。

嬉しい報告でした。

一度決めたら必ずやり通す生徒さんでした。

 

他にも毎年中学校のピアノ伴奏を弾くのが楽しみな生徒さんが多かったです。

皆さん伴奏が弾ける喜びから練習にも身が入り楽しんでみえました。